最近、自分の周りではこういう声がよく聞かれるようになりました。
「1話たった30分のアニメを毎週追いかけるのが大変になった」
「見たい映画がいっぱいある。でもそのためにまとまった時間を取ることに気合いが要るようになった」
「1クール12話のアニメを毎週リアタイ視聴していたが、だんだんと録画で後で見るようになった。しかし録画で見ていたのが、最近は後で見よう後で見ようと、1年ぐらい放置している」
「新しいものを追いかけるのが億劫で、過去の作品やゲームをずっと繰り返し何度もやってしまう」
「最近の流行のアニメやコンテンツについていけなくなってしまった。皆は地上波でやっているアニメや、最新のスマホゲーを追っかけて楽しそうにしている。でも自分は5年前、気がつけば10年前のコンテンツを擦り続けている」
「前はライブを現地全通してたし、お金が無くてもライブビューイングで全通していた。コロナ禍でライブイベントが途絶えてから、今は復活したものの、お金や時間があっても全通する気力が無くなってしまった」
「映画やアニメは早送りで見てる」
……コンテンツ過多が叫ばれる現代、あなたの周りに1人はいるのではないでしょうか。あるいは、あなた自身がそうじゃないでしょうか。
特に、昨今のコロナ禍で一旦ライブイベントが途絶えて、しばらくしてライブイベントが復活するようになったものの、コロナ前は足繁く通っていた様々なイベントに通う気力や体力が無くなった……。
これは加齢のせい?老化?昔の熱意を復活させることはできないのか?自分が徐々に最新トレンドを追えなくなったり、昔楽しめたものを追えなくなるのが怖い!一体どうすれば!?
こういう悩みを抱えてはいないでしょうか?
今回はその話をします。
嫌いじゃないのになんか追えなくなる
最近、私はアニメや映画を頻繁に追ったり、ライブを全通することがなかなか億劫になってしまいました。いや今までが熱度高すぎただけなんでしょうけど。
コロナ禍前までの私
アイマスライブは、行ければ現地、ダメならLV。どんな無茶な場所でも、行程はチケットが取れてから考える。
お金?そんなものは後でなんとかなる。
翌日仕事?月曜朝に遠征先から新幹線で出社すれば良い。
そう思っていました。ていうか、実際そうしていました。いつも一緒に連番したり、遠征する人たちも同じような感じだったと思います。
そんな中でのコロナ禍、私は限界まで干からびました。
※どんな感じに干からびてたかはこちらに克明に記録しております。
コロナ禍が落ち着いた後、ライブを追えなくなった
さて現在。オミクロン株がどうとか言われておりますが、今の所ライブイベントは前みたいに行政からいじめられ、干されることは無くなったように見えます。
が、ミリ7thR以降、自分でも驚いたのですが自分のライブイベントに対する意欲は変わっていました。
ライブは前のように全通しようとしなくなったし、配信で見れたとしても全部は見なくなりました。
アイマスに対する熱意は変わっていないのに。あれだけライブを軸にプロデュース活動を楽しんでいたのに。まあもしかしたらいい感じの湯加減に落ち着いたんだと思います。
コミュや新曲を追いかけるのも大変になった
そういえばアイマスに限って言えば、新曲を追いかけるのも大変になりました。
デレステで新しいイベント曲が出てきたり、ミリシタで新しいイベントコミュが出ても、追いかけるのが大変に感じるようになりました。気がつけば後回しになり、そのまま忘却の彼方へ。そしてライブ直前に急いで履修。そんなのたかだか数分で終わるのに。
その数分のコミュには、シナリオライターの熱意や、声優の魂の演技、そしてその他大勢の裏方の努力があるのに、それを読み、聞くことを億劫と感じてしまう自分が演者や運営陣に対して申し訳なく感じるようになりました。
最近アニメや映画を追うのが億劫になった
そういえばコロナ前からもそうだったんですが、アニメや映画もあんまり追わなくなりました。ていうか、『追えなく』なりました。
『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』なんかは、すごく面白かったし、今までラブライブ!にあまり触れてこなかった自分がはじめて本格的にハマったラブライブ!シリーズなのに……。最初は毎週録画しては翌日の夜にはすぐ観ていたのですが、終盤になるにつれだんだん億劫になり、結局最終話まで見たのは最終話が終わってから半年以上経ってからでした。
一方の映画も。
私は映画が好きです。20代のときはとにかく多くの映画を観ていました。でも、いつからか映画を見るための2時間というまとまった時間を取ることが億劫になってしまいました。
「観たい映画があるから、毎週木曜はAmazon Prime Videoで映画を1本見るぞ!」と一念発起したものの、1,2週間でそれは終わりました。
観たい映画、見つけるたびにfilmarksにメモしてあるからいっぱいあるのに。
皆がシン・エヴァンゲリオン劇場版を観ていた中、自分は億劫で観てませんでした。この時、自分が社会から疎外されつつあることを自覚しました。
↑filmarksに積まれた観たい映画の山
自分が追えたものが追えなくなってきた
決して嫌いになったとか、飽きたとか、熱意が失われたというわけではない
そういうわけで、今まで熱意を持って追っかけていたコンテンツやアニメ、映画が追えなくなっていました。そして、コロナ禍で強制的にライブイベントを干された後、今度は前のようにライブイベントを追いかけることが難しくなってきました。
毎年行っていたリスアニ!LIVE。今年は行きませんでした。
デレ10thライブ、昔だったら現地全通は流石に無理でも配信でも全部追いかけてたと思います。千葉の現地は行きました。でも、全体を通すと1/3ぐらいの日程は実は観ていません。
とか言いながら、毎回現地行ったオタクのツイートを見ては「行けばよかったー……」とガックリしています。
そう、別に飽きたとか、熱意が失せたとか、そういうわけじゃあないのです。アイマスに対する好きの度合いとか熱意は今も昔も変わりません。
過去の話をずっとするようになる
例えば、毎年行っていた『リスアニ!LIVE』。2018年に『アイドルマスターミリオンライブ!』が出演したとき、Fairy Starsの選抜メンバー4人が生バンドで『Fairytaleじゃいられない』を披露したこと。同じ年に行われたミリ5thで南早紀さんがすごかったこと。
更に昔に遡れば、2011年にさいたまスーパーアリーナで行われた『けいおん!! ライブイベント 〜Come with Me!!〜』がすごかったこと。
こういう話が最近徐々に増えてきている気がします。
というか、口を開けば「放課後ティータイム結成10周年記念ライブはまだか?」と言っている気がします。
最新情報に関心が無いわけじゃない
もちろん、アイマスの最近の動向は追いかけています。ミリシタで今やっているシーズンシリーズは追いかけてます。ミリ8thもアニメも楽しみです。
あとアイマスじゃないけど電音部も追いかけています。ていうか、今この記事はSpotifyで電音部を聞きながら書いてます。
が、5年前、10年前の自分ならもっと熱意と勢いを持って追いかけていたでしょう。
電音部の先日行われたライブは迷った挙げ句私は行っていません。でも5年前の自分なら迷わず行っていたでしょう。ニジガクのライブも。
スタマスは発売日に買いました。みんながDLCのKAWAIIウォーズの話題でもちきりの中、私はまだ本編終わっていません。
時間はあったんです。
ただ寝る前1時間何となく腰据えてやる気合いがいつも無かっただけなんです。
最近の動向を徐々に追えなくなる恐怖
自分はこのまま、だんだん最新のコンテンツから取り残されていき、そのへんにいるありふれた、何の特徴もない中年になってしまうのか。延々と昔の話をして老け込んでいく、何につけても意欲を持てなくなる人間になるのか。そんな恐怖がやってきました。
ってか1年ぐらい前にお前「コンテンツに振り落とされないように自分自身がマス側でいられる努力をしろ」って↓で言ってたじゃん。何なの。
アニメ、ゲーム、映画。あらゆる最新情報を能動的に追えなくなり、いつしか自分は、かつて吉田戦車が残した迷言と同じことを言うようになりました。
「やらずに済むゲームは無いか?」と。
『ジェーン・スー 生活は踊る』に寄せられた『ライブに行くのが億劫になってきた』という相談
ツイッターをぼんやり見てると結構こういう悩みを抱えている人は多いようでした。
そんな中私が尊敬するコラムニスト、ジェーン・スーがラジオで1つの答えを提示していたのでぜひ紹介したいと思います。(出典: 2021年12月2日 11:00-放送 TBSラジオ『ジェーン・スー生活は踊る』)
私は仕事しているとき、だいたいラジオを聞いてるのですが、月~木の11時からはこの番組を聞いています。そんな中、自分が一番真剣に聞くのは、12時からやってるお悩み相談コーナー『相談は踊る』です。
そのコーナーにある日寄せられた相談内容。
最近、コロナが落ち着いてきて(註: 2021年12月上旬時点)、ライブイベントなどいろいろなイベントが復活してきました。
私はコロナ前は足繁くライブに通っていて、それが生きがいと言ってもいい生活をしていました。しかしコロナの後ライブが復活したものの、前のようにイベントに通う気力や体力が無くなって通う気力がありません。
そのまま離れていくことが怖いです。これは年齢のせいでしょうか?過去の熱意を復活させるにはどうすればよいですか?
(※内容はうろ覚えですがだいたいこういう内容だった気がする)
これを聞いて、「ああ、まさにこれは自分と同じだ……」と、いつもより注意深く聞くことにしました。年齢も30前後、自分よりちょっと年上ぐらいでした。
それに対してジェーン・スーの答えが、「あ~~~~、なるほどな~~~~」と目からウロコだったので、私はそれをノートにまとめました。
そのときのノートを元に、以下にまとめます。
※以降の内容は、ラジオ内でジェーン・スーが言っていた内容を元にしていますが、うろ覚えであることと、自分の主観が混ざっているので、「ジェーン・スーの発言を元に、自分の中で解釈し、結論付けた内容」という心づもりでお読みください。万が一何かあなたに引っかかる内容があれば、その責任は誤った解釈をした私か、変な読み方をしたあなたにあります。
30歳を超えるとアンテナを張り続けることは難しくなる
そもそもの前提として、30歳を超えると、今まで熱意を持ってやってこれたことを続けることは難しくなります。
新しいものを追いかけ続けるには、アンテナを張り続ける必要があります。(我々もアイマスを追い続けるために毎日公式アカウントのツイート、声優のツイート、CD発売予定、ライブイベントのチケット情報を日々追いかけてますよね)
だんだん、このアンテナを伸ばしても情報が拾えなくなったり、それを拾うことが難しくなります。そして結局、昔追っかけていたものを『懐かしい』と追いかけている方が楽になるというわけです。
クルマのCM曲はちょっと昔の流行曲
いい例が、クルマのCMです。
上記は今適当にYouTubeで探してきたものなので、それに該当するかはわかりませんが*1、クルマのCMは最新のヒット曲よりもちょっと昔の流行曲を使うことが多いようです。
実際そうじゃないでしょうか?見ていると、ちょっと昔の洋楽を使っていることが多くないですか?
これには以下の理由が主にある、と言われています。
- ターゲットとしている購買層が、新しいものについていけなくなった年齢層
- そもそも、そのCM決定権を持つ人間の音楽世代
クルマに限らず、「ある程度年いってて、大きな買い物をする年齢」になった人に向けた宣伝ってそんな感じしませんか?
要は、新しいものを追えなくなること、それまで熱意を持って追っていたものが追えなくなること、昔好きだったものをいつまでも擦り続けることは、必然というか、残念ながら皆そうなってしまうのです。
新しいものを追えなくなることを悲観する必要はない
ここまで読んで、絶望感を感じた方は多いのではないでしょうか。しかし、新しいものを追えなくなること、ついていけなくなることを悲観する必要は全くありません。
好きだったものは、追えなくなっても好きである
大前提として、『今まで好きで追っかけてきたものを追うのが大変になり追えなくなったとしても、今まで好きだったものが嫌いになるわけではない』のです。
あなたが、現状の展開に何らかの嫌気がさしたとか、そういうのではない限り、好きは好きのまま変わりません。
環境の変化で追えなくなることは多い
加齢によって追えなくなるだけでなく、だいたいこのぐらいの年齢になると、仕事、結婚、育児など、様々な環境の変化が発生します。そのせいで、今まで熱意持って触れていた趣味に触れなくなることはあります。あるいは、触れられてもその時間は少なくなるでしょう。それに合わせた楽しみ方にシフトしていくというのは自然の流れです。
好奇心は決して枯渇しない
一番大事なのは、趣味が追えなくなっても、環境が変わっても、"好奇心は絶対に枯渇しない"ということです。あなたは何かが追えなくなったとしても、日々何か新しい興味関心を見つけているはずです。
自分の周りでも、普段からよくアイマスライブで連番したり、一緒に遠征していた仲間内の顔ぶれはここ数年で変化してきました。皆元気に生きてはいるのですが、皆徐々にライブ全通をしなくなったりしてきました。
が、やはり好奇心は常に絶えることなく、趣味嗜好が変わってD+とかナナシス、ウマ娘など別コンテンツを推すようになったり、山に登ったり、インドアに別の趣味を見つけてそこにシフトしたり……。それでも、皆各々で新しい興味を見つけて追いかけています。(逆にアイマスライブばっか集中して追っかけてるのは自分だけかもしれない)
自分も、30分のアニメを見ることが億劫に感じても『好奇心』だけは逆に年々増していっている気がします。そして、その好奇心は突然自らの熱意に火をつけることは多いです。
好奇心から沼にハマり、勢いで追いかけていった事例はありますので、いくつか紹介しましょう。
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を自分が追いかけてた時は、勢いでアニメを全話観て、その週末には舞台#2を観ていました。そして、ロンド・ロンド・ロンドを観て、劇場版を何度も観て、先日#3を現地で観劇してきました。
そして、それに狂っていたら、気がつけば周囲のオタク3人をスタァライトに沈めていました。すごいなー。
他にも、MSFSがキッカケで航空機についての好奇心が無限に湧いてしまい、全く知らなかったところから急速に知識を吸収。当然シミュレーター上での話なのですが、先日羽田空港にあるA320の実機同様のフライトシミュレータを触ってきました。
そして最近気がつけばVATSIMの試験に合格し、フライトシムのバーチャルの空の航空管制をできるようになりました。
アニメ30分見るのも億劫と感じていても、好奇心が枯渇することはありません。そして、その好奇心は常に新しい爆発的な行動力を生むのです。
過去の熱意を無理に取り戻そうとするほうが危ない
一番持ってはいけないのは『義務感』
実際、今の時期は、干されたイベントが戻ってきたタイミング。そしてそこに偶然加齢が重なって、準備してきたはずの気力が失われているというわけです。そこについて悲観する必要は無いということを前項で書きました。
昔できていた趣味に対する熱意や気力が失われ、追えなくなり、趣味に対して受動的になっていく。これは確かに恐怖です。が、その恐怖を克服しようと、過去の熱意を取り戻そう、気持ちを維持しようと考えて、様々なイベントに『義務感』で通うのはもっと良くないでしょう。
それは更に疲弊を生み、ついには永遠に離れることに繋がります。
『推しは推せるときに推せ』という呪い
これは個人的に感じていることなのですが、オタク界隈での格言である『推しは推せる時に推せ』は、たしかにその通りなのですが、最近ではこの言葉があらゆるオタクを義務感でコンテンツに張り付かせる呪いの言葉のような気がしてなりません。特に、コンテンツ提供者側がこの言葉を言っているのを見ると、自分は少しもやっとします。
この言葉が出てから、『推せる残り時間は限られているのだから、その限られている時間の1分1秒たりとも無駄にするな』……そう解釈してしまい、まるで明日死ぬかのように生き急ぎ、義務感で追いかけるオタクが増えた気がします。
『推せる時』というのは時間的余力は当然ですが、他にも経済的余力、気分的な余力、そういった物も『推せる時』に含まれてもいいんじゃないでしょうか?
一番大事なのは貴方の人生です。貴方の人生と将来をより良いものにしていく、それを優先するならば、コンテンツと自分自身が共存共栄していく良い距離感を取れてから考えてもいいんじゃないでしょうか。
気が向いたものだけ触ろう
加齢、環境の変化、趣味の変化。追っていたものが追えなくなる恐怖と我々はどう付き合って行けばよいのでしょう。
結局、その自分の気持ちの赴くままに任せるのが一番良いのではないでしょうか。
コンテンツ過多時代の私達
今はコンテンツ過多の時代。
あらゆるコンテンツが、とにかく横展開して物量で殴ってくることで、少ない可処分時間を専有してきます。
そして、リアルイベントを通じ、感情に語りかけてきます。
『自分達がコンテンツを支えている』『自分達が買い支えなきゃ』『自分達のコンテンツと、そこで遊ぶ自分は社会に良い影響を与えている』『私のコンテンツに対する消費は善行である』と思わせてきます。
より多くの財を出せる者*2にはロイヤルカスタマーとしてのおもてなしと名誉と一生モノの思い出を、出せない者には安価で楽しめるライトなサービスを。そんな感じに他に浮気させないようあの手この手で釘付けにし、隙あらばオタクの可処分時間だけでなく未来の生涯所得までも囲い込もうとしてくる時代です。
コンテンツ過多は悪ではない、適度に錯覚とエモさに酔って共存共栄でいこう
まるでコンテンツ提供者が悪者かのように書いてますが、決してそういうわけではありません。
別にカツアゲしてるわけではないし、信者ビジネスのように怪しい事やアコギな商売をしているわけでもありません。取れるところから取るのは、利潤の最大化を目標とする企業活動として当たり前の行動です。そこで出されたお金がきっちり良質なコンテンツとして還元されているので全く問題ないでしょう。我々だってそれを理解した上で、それ以上に人生が彩られて楽しいし、注ぎ込んだ以上の喜びが得られ、それを糧に日々の人生を頑張れるわけです。だから自らの責任と意思で、喜んで可処分時間と可処分所得を注ぎ込んでいるわけです。これほど良い共存共栄の関係があるでしょうか。
しかし、そんなコンテンツ過多の時代、義務感を持ったらあっという間に気持ちと財布が疲弊します。そしてせっかく好きだったものを嫌いになってしまいます。
義務感は捨て去り、自分の興味の向いたもの、気が向いたものを、気が向いたときに触ったり足を運ぶ。
自分の気持ちに正直に任せて、自然に任せるというのも手ではないでしょうか。
何より、好奇心はいつまでも続くし、形が変わってもあなたの好きに変わりは無いのですから。
私たちが京都でやっているポーランド語勉強会に、一時期すごくご高齢のお爺さんが参加していたことがあった。とにかくポーランド語学習にかける情熱が凄まじく、毎回読む部分をびっちりとノートに書き写してしっかりと予習してくる人だった。その後私は千葉県に初就職が決まり、勉強会からも離れた。
— ɐɹɐʍɐᵷns oɥs (@sugawa_rasho) 2022年1月13日
それから1年以上経った頃だろうか、勉強会のメーリングリストそのお爺さんが亡くなったことを知った。私がいなくなった後ずっと体調を崩していたそうで、最後の方は奥さんに付き添われながら、まるで最後の命を燃やし尽くすように勉強会に参加されていたと聞いて、心底驚いた。
— ɐɹɐʍɐᵷns oɥs (@sugawa_rasho) 2022年1月13日
亡くなる前までずっとポーランド語辞書を手許から離さず、その辞書は棺に入れられたそうだ。
— ɐɹɐʍɐᵷns oɥs (@sugawa_rasho) 2022年1月13日
いったいどのような情念が、あのお爺さんをあそこまでポーランド語学習に駆り立てたのかはよく分からない。あの人が自分について何か語っていたような場面をあまり記憶していない。とにかく寡黙な人だった。
あの人のことを思い出すたびに、人間というものが本当に何歳になっても、死ぬ間際まで貪欲に知識を追い求め勉強したがる生き物なのだと改めて思い知らされ、ある種の感動を覚えると同時に慄然とした気持ちにもなる。それほどまでに、人間にとって学ぶということは本質的なものなのだろう。
— ɐɹɐʍɐᵷns oɥs (@sugawa_rasho) 2022年1月13日
人間は金や仕事のために学ぶのではないと思う。生きるために学ぶのである。だから、あらゆる人のあらゆる学びには計り知れないほどの価値があるのだし、それは「カルチャーセンター」だろうが何だろうが同じである。
— ɐɹɐʍɐᵷns oɥs (@sugawa_rasho) 2022年1月13日
あのお爺さんの死を知って以来、私はそのように考えるようになったのでした。
でも、好きだったものを追えなくなっても大丈夫……。
眠い朝も憂鬱な夜も、
TAKU INOUEが
いつもそばにいるよ。
感想もお待ちしてます。直接言いづらかったらマシュマロでもいいよ