2022年10月31日、秋葉原のとある【場】が消失しました。
この文章は、そんな【場】の消失を体感し、そのときの悲しみの勢いに任せて書いた当時の文章を整理して書き直したものです。
半分以上は自分語りです。
自分は『コンテンツ』ではなく【場】を求めている
好きな作品<場
自分は、主に『アイドルマスター』を中心に、色々なファンコミュニティに顔を出してきました。
そして、アイマスだけではなく、それ以外のファンコミュニティ、そして様々なコンテンツや、お店、イベント、あるいはそれを発祥とした様々な集まりにも顔を出してきました。
そういった集まりに引き続き顔を出し続けることも、あるいは一度限りで終わることもあります。その傾向を自分なりに振り返ってみると、【場】があるかどうかの違いなのかなと感じています。
好きな作品の会だから集まるというよりも、そこに【場】があるかどうか、逆に言えば【場】が存在しなければ、どんなに好きなコンテンツのオフ会であろうとも参加することは無いように感じます。
【場】の原体験
その【場】って何よって話をする前に、自分の過去の体験を振り返ってみようと思います。
『2ちゃんねる』と『マビノギ』が居場所だった
10代の頃、学校に居場所はありませんでした。
学校以外では自室に引きこもっていました。2ちゃんねるとMMORPGと無料FPSゲームをすることで過ごす時間が圧倒的に長かったのが当時でした。
mabinogiで弓師としてダンジョンに潜ったり、Wolfenstein: Enemy TerritoryやSoldatをしたりしていた記憶があります。
ネトゲに飽きたら、2ちゃんねるに入り浸っていました。どういうことを書いていたかは覚えていないですが、低スペックノートPCでもできる無料ゲームを探したり、ニュー速に糞スレを立てたりして連日深夜まで2ちゃんねるに入り浸っていたことは確かです。
行けば誰かが居る、居なくても誰かが来る
その後、「ニュー速VIPというフロンティアがあるらしい」という噂を聞きつけ、当時できたばかりのニュー速VIPに居場所を移しました。そこでなんとなくスレを立てたところ、何故かそれがその後数年続く雑談スレとして続いていきました。
次第に、常連の『名無しさん』たちがコテハン*1を徐々に名乗るようになり、会話をするようになりました。自分も名乗るようになり、連日夜遅くまで色々な人と会話をするようになりました。
常にそこに行けば誰かが居て、誰も居なければ待っていれば誰かがふらりとやって来る、来たものは拒まない。ネトゲでも2chでもそういう【場】が自然に形成されていきました。
たとえるならば、ドラえもんの空き地のようなものでしょうか。
これが、自分にとっての【場】の原体験でした。
【場】と『学び』
大学生になり、いつの間にか引きこもりネトゲ廃人は脱出していました。
インターネットを飛び出した自分は、インターネットに軸足を置きながら外に【場】を求めるようになりました。
『ドラえもんの空き地』を求めていた
池袋西口公園に集まるオフ
その後、大学生になってから短い期間ではあったものの、池袋西口公園に入り浸るようになりました。
これは何かというと、暇な人が池袋の西口公園の舞台裏に集まり、各々で缶ビールだとかお菓子だとかを持ち寄り、その場に居合わせた人たちでだべるだけの会でした。
ここも、まさに「行けば誰かが居る、居なくても誰かがそのうち来る、来たものは誰も拒まない」という、ドラえもんの空き地のような【場】が形成されていました。
そこには、バックグラウンドが違う様々な人達が集まっていました。
様々な価値観と生き方
学生、会社員、無職、主婦、あとはアイドルもいた気がします。
そこで会った、様々な属性を持つ人達と面と向かって会話しました。そこには常に【学び】がありました。決して同じ学校や、同じ地域、家族、友人からは得られないような、様々な価値観、生き方に触れることができました。
自分が、【場】だけでなく【学び】を求めていることに気がつくのは、それから数年経ってからのことでした。
きちがい小説との邂逅
文学フリマ
西口公園オフに行かなくなってからしばらくしたある時、私は文学フリマにいました。
ふらふらとサークルを巡っていたところ、ある狂った同人小説を書くサークルと出会いました。
初めての同人イベントで出会った1冊の小説。「登場人物は皆キチガイだが、作者が一番キチガイだ」と架神恭介氏の帯コメントがあしらわれたその一冊。
「同人はこんなことも許されるのか……」と自分はそれを手に取り、買い、帰って読みました。
「こんな狂った小説を書く人はどんな人間なのだろうか」私は気がつけば、作者のWebサイトを探して掘り下げていました。
どうやら調べてみると、この謎の人物は繁華街の外れにある寂れた雑居ビルの一室を使って、各々で食べたいモノ飲みたいものを持ち寄って、毎週木曜に集まる会をしているらしいということがわかりました。
「なんだそれは、怪しすぎる。一体何をしているんだ」
私は木曜の夜にそこに足を踏み入れることにしました。自分を突き動かす原動力は好奇心だけでした。
繁華街の外れの雑居ビル
ある木曜日、私はWebサイトの情報をもとに、そのビルに来ました。目の前にはオンボロの、とてもなにかお店が入っているとは思えない雑居ビルがありました。
「本当にここにあるんだろうか?」と思い、足を踏み入れる。
一体ここで何が行われているのか。何らかの犯罪行為が行われていたり、恐ろしいことが行われていたらすぐに逃げよう。そう自分に言い聞かせます。
途中で帰るか迷いましたが、ここまで来たなら行くしか無い。意を決してドアを開けました。
ドアを開けると、そこには白い衝立が。少し覗き込むと、事務所のようでした。
階を間違えた。すぐにドアを閉めて逃げました。
雑居ビルに作られたバー
正しい部屋にたどり着いてドアを開けてみると、そこにはバーカウンターと、数名の人が。
「どうぞー。」その中の誰かが、拒むわけでもなく、過剰に歓迎するわけでもない感じにも取れる、間延びした声を自分へかけてきました。
バーカウンターに1席分開けてもらい、そこに自分は入りました。
【場】と【学び】
そこには、まさに自分の求めていた【場】が存在していました。
仕事、出身、学歴、年齢、様々な属性を持つ人が名を名乗ることもなく、集まっては離れることを繰り返す。そこには常に刺激が有りました。
語弊が生じますが、性質的にそこに足を運ぶ人たちはどこか「世間一般の常識や概念」と良い意味で少し離れている人が多かったように感じます。その人たちによって作り出される異空間は常に【学び】がありました。
いつしか自分はそこで色々な人の話を面と向かって聞くために毎週足を運ぶようになりました。
自分が歩んでこなかった人生を歩んできた人たち、自分の知らないことを知っている人たちから聞く話は、常に新鮮な驚きと発見があり、そこに気持ちよさを私は感じていました。
そこの主宰者(つまり、前述の狂った同人小説を書いていた本人)は、【場】を作ることに対して思い入れがある人で、それに対して骨身を削っていまいた。
そこで初めて、自分は「ああ、自分は常に【場】と【学び】が欲しいのだ」と理解したのです。
取り壊し
ちなみに、その後1年だったか2年だったか、その建物が取り壊され、【場】が消えることになりました。
とはいってもこれは実は最初から決まっていたことで、自分が知らなかっただけの話です。(だからこそ安く借りることができたらしい)
建物を引き払う日、私は片付けに参加しました。色々な家具を解体したり、捨てたりして、すべてを終え【場】が、ただの何もない事務所になったとき、どこかスッキリした気持ちになったことは覚えています。
バー
その後、前述の主宰者は【場】を作ることに熱意を燃やし、紆余曲折を経て都内の某所に小さなバーを構えました。今でも自分は時たまそこへ通っています。
そこでも常に【場】と【学び】があり、自分は時折抱え込んだときに行くことが多いです。
とはいっても、そこに行ってなにか答えを出してくれるわけではありません。大抵はとりとめのない話で終わります。でも、その過程で色々整理されるのかもしれません、そこでヒントが見つかり、帰ることが多いです。
そういうことを繰り返しています。
そういう経緯で、自分にとっての【場】とは何かという考えが形成されるのでした。
自分は【場】と【学び】を求めている
今、自分は色々なコンテンツのファンコミュニティに集まりや、趣味のコミュニティやイベント、あるいは友人の集まりに顔を出しています。
それは前述のバーだけでなく、アイドルマスター関係のオフ会だったりだとか、あるいはストリートダンス関係のナンバーや練習会といったものです。
そういった集まりに何度も顔を出すところとして共通しているのは、自分が考えるに前述のような【場】とそこで得られる【学び】をいただけるからと思います。
コンテンツの供給の良し悪しに自分は関心が無いのかもしれない
正直な事を言うと、自分はその【場】と【学び】があるかどうかが、そこに居続ける理由のほとんどだと思います。
例えば、何らかのコンテンツのファンコミュニティがあるとして、そのコンテンツ自体の質が良くなかったり、あるいは追加の供給が自分の需要にマッチしていないとしても、【場】があれば、居続ける理由となりますし、その【場】を構成する人たちから【学び】があれば(自分自身に学ぶ姿勢があれば)、コンテンツの供給を完全に無視して居続けることになると思います。
コンテンツそれ自体はキャンプファイヤーの盛り上げ役に過ぎない
【場】を、大きな1つのキャンプファイヤーと、それを中心に集まる人達と捉えた場合、その場に集まった人たちの話しやすい共通の話題として好きなコンテンツに関する話題が活躍することは多いが、「自分にとっては」それはその場を盛り上げるための焼きマシュマロのようなもので、場を維持し、盛り上げるための要素の1つに過ぎないのでは?と考えています。
仮にマシュマロを焼きすぎて失敗したとしても、場をぶち壊しにすることはあまりないでしょう。次にうまく焼けるようになるまで、別の話題を続けるだけです。
(自分にとって)ライブイベントは軸ではあるが主体ではない
これは、自分とライブイベントで連番した人は聞いたことがあるかもしれない話なのですが、自分はアイマスライブなどいろいろなイベント事に関して「ライブそのものより、それを軸として付帯するイベントをいかに肉付けするかがライブだ」といった事を何度か言ったことがあったと思います。
付帯するイベントは、例えば遠征という旅行だとか、アイマスP同士の交流だとか、食事だとか、観光だとか、打ち上げです。
自分にとってあくまで【場】が主体であり、ライブイベントはそれを支える軸にすぎないのです。
【場】を作るか、それを維持することに情熱を燃やせる人でありたい
ありものでの楽しみ方を探せる人でありたい
だから自分は、「行けば誰か居る、来なければ誰かが来る」【場】を作りたいし、そこで過ごすことで何らかの【学び】を得たいと考えており、そしてそこで楽しむことを惜しまず、維持しようとする人たちに惹かれます。
公園や雑居ビルのような何も無い更地でも、その場にあるものを組み合わせて、楽しめる【場】を作ろうとする人や、それを維持することに対して、運営側とか客とかいった立場に関係なく協力して情熱を捧げることができる人に惹かれ、尊敬しています。
ありもので工夫して、楽しそうにしている人たちが多くいれば、そこに自然と人は集まってきて、叡智が集まり、より盛り上がるものだと思うのです。
もちろん、その過程で不満や文句をぶちまけてもいいのですが、与えられることを待ち続け、何を与えられても文句しか言わなかったり、その不満ばかりを垂れ流す姿勢の向こう側に「私は界隈のことを真剣に考えている、だからこういう厳しい事を言っているのだ」というような本音が透けて見えると、「嫌だなあ」と個人的には思ってしまいますし、そういう人が多いと自分は近寄らなくなります。
形はどうあれ、「楽しもう」「シーンを盛り上げよう」という意識は常に持っていたい
「文句ばっかりを言ってる人がいる界隈」よりも、焚き火を囲ってよくわからないけど落ちている木の枝を拾って楽しそうに踊り狂っている人たちが多くいるところのほうが楽しそうだし、人が集まると思うのです。
そこに集まった人たちが、「自分たちも楽しみたい」あるいは「自分たちも盛り上げたい」と考えるようになれば、シーンの盛り上げに良い影響を与えるのではないでしょうか。
その過程で更に学びがあれば、もっと楽しいだろうなあ、と思うのでした。
……自分が毎年夏にネット上のオタクで集まってバーベキューをやるのは【場】を作りたいからかもしれない?
以上、【場】と【学び】の過去の経験と、考えていることを全部書いてみました。
※一連の元ツイートはここ👇から読めます。
色々なコンテンツや、お店、イベント、ファンコミュニティ、あるいはそれを発祥とした様々な集まりに数多く参加して思ったのだけど、多分自分は、そこに集まる人達に共通する属性が合うかよりも、まず【場】を求めているのだと思う。
— ずんこP 12/10ゼログラDJ 12/18たかまら ミリ9thMOIW2023現地 (@ohtsuki_zunko) 2022年10月31日
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